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花の業界情報

一本の電話

昔の話です。しかしこの「一本の電話」がインパックの将来を決しました。1980年代は一所懸命優秀な包装材料屋になろうとしていました。レトルト包材、チルドビーフ、お蚕の人口飼料を開発した企業と共同出願した特許もありました。日比谷花壇、第一園芸さんも動き始めていました。生花店からギフトショップへの転換です。そこは花のボックスを通してお付き合いがありました。それぞれの分野で私たちはがんばっていました。しかしメーカーがいてインパックがいる体制では限界を感じていました。何かに絞り込みをしなくてはいけない、と焦っていた時期です。

ある朝早く、アメリカから一本の電話をいただきました。40年も前のことです。「君はまだ日比谷花壇さんと付き合っているのか」という内容でした。電話の主は一橋大学の榊原助教授でした。先生はこのころアメリカにいて研究生活を送っていました。内容はアメリカではスーパーが本格的に花に進出している。いずれ日本にも入っていくと思う、早くスーパーに行き花の包材をやると良い。しかし私はいったいどうすればいいか迷いました。

つまりスーパーで花を野菜の様に花を売るイメージが付きませんでした。そこで専務は早速アメリカのスーパーへ行きました。私はオランダの市場へ出発しました。副社長は時間をかけ日本中の花市場、300社以上を回り、4トン車で購入する生花店をリストアップしました。

アメリカのスーパーは花を数本ずつスリーブに入れ、バケツに入れ販売していました。ほぼ今と同じ形態です。オランダも驚きました。市場の中に仲卸や切り花の輸出会社が300社ほどあり、その時すでに花束加工機械が200台ありました。オランダでは花を加工しアメリカへ送っていました。日本ではこのころバブルがはじけ花が売れなくなっていました。

このタイミングでスーパーが花を売り始めました。当時のインパックはスーパーと加工メーカーのマッチングは大事な仕事でした。副社長のリストアップは大活躍しました。

先生からの1本の電話は僅かに間に様々拡大解釈しインパックの仕事が始まりました。オランダからの花束加工機械の輸入、スリーブの生産がここで始まりました。

先生がなくなる直前、幕張の展示会にご案内をしました。機械や、スリーブなどを見ていただきました。能登へご案内できなかったことが気がかりです。

花業界はその時大きく変わりましたが、ここにきて大きな変化がありそうです。

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